曽我梅林
神奈川県小田原市
2006年3月5日
神奈川県小田原では今から約600年以上も昔、 北条氏の時代に梅の実を兵糧用にするため、 城下に多くの梅の木が植えられました。 それが江戸時代には、小田原藩主の大久保氏により梅の栽培が奨励され急速に増えました。 さらに、箱根越えの拠点としての宿場町として、旅人の必需品としても梅干が重宝されました。 その小田原の中で曽我梅林では、食用の梅を生産するとともにその花の美しさ、 可憐さ、高貴さを楽しんでいただきたく、約40年ほど前に地元農家が実行委員会を作り、梅祭りを開催するに至りました。 小田原の約7km北東に広がる中河原梅林、原梅林、別所梅林の3つの梅林の総称。 約35000本の白梅が植えられています。 食用梅の生産が目的のため、その殆どが白い花の白梅になっています。 〜小田原市観光協会HP参照〜 〜goodtimeの追想〜 東京で一夜を過ごし、翌朝早くに小田原へ向かう。 6時43分、下曽我に到着。 理想はもう少し早く着きたかったが寝過ごしてしまったためこの時間に到着。 それでも駅を出ると商店も開いておらずとても静かで、 誰もいなかったが遠くに見える富士山が出迎えてくれた。 ネットで入手したマップを見ると下曽我には、別府、原、中河原の3つの地区に分かれて大きな梅林スポットがあるが、 とりあえず、駅から一番離れている別府から順番に巡っていくことにした。 別府地区に向かう途中、矢印の通りに進んでいくと、原地区へ来てしまった。 平地の梅林スポットでどのくらいの規模かわからないが撮影はとりあえず後にして別所地区へ向かおうと歩き、 原地区と別所地区の境がわからず、いつの間にか別所に入ってきたようだ。 それにしても広い。 広過ぎてただ梅を見ているだけのような気がする。 観賞用ではなく食用の梅が殆どなので、白梅が多くどこを見ても白梅ばかり。 特に何かアクセント的なものがある訳でもなく、いや富士山という大きなアクセントがあるが、 ただ単純に富士山と梅という在り来たりな構図は撮りたくなかった。 そこでふと思ったのが、この広大な梅林を小高い山から撮れないものだろうか? そう思い、梅林の裏山を目指してみる。 長旅による疲労で早くもクタクタになりながらも10分程度の坂道を上ると、この山の斜面にも梅林があった。 一体、この街にはどのくらい梅林があるのだろうか? そう思いながら街並みを見渡せるところまで上ると、その規模の広さに驚かされてしまった。 辺り一面、梅・梅・梅・・・ 小さい子供が何も知らずに入りこんだら出れなくなるのではないか?と思うくらい広い梅林地帯だった。 まだ山の斜面に日差しが当たらないので、しばしこの広大な景色を見ながら休憩。 小田原市の街並みや箱根の山、相模湾など、 全然高い山の頂上にいる訳でもないのに、気軽にこれだけの風景が楽しめる場所は滅多に無い。 夕暮れ時になれば、小田原の夜景と富士の組み合わせで撮るのも面白い。 御殿場線が走る電車の音が聞えるので時間潰しに鉄道俯瞰撮影したりと時間を過ごした。 8時過ぎになってようやく日差しが当たりだしたので撮影開始。 自分の描いたとおりの構図になり満足の行く絵になった。 思わぬところで時間を潰してしまったので急いで先を急ぐ。 再び、別府、原地区を歩くが先ほどの光景に比べれば、平地で単純な写真を撮ろうという気にはなれず、 歩いているうちに下曽我駅まで戻ってしまう。 9時を廻っていたので、地元の人による物産展の準備もほぼ終わっていた。 物産巡りは後にしてもう1つの地区である中河原へ向かった。 瑞雲寺というお寺に多くの観光客が集まっていたが、何が有名なのかよくわからない。 この地区から見る富士が下曽我の中で一番まじかで見れるだけあって、少し迫力を感じられるが、 写真を撮ろうとは思わなかったのは、感動するだけの気力と体力が無かったからだと思う。 気温は何度がわからないが、寒さ対策万全の格好なので暑さも益して集中力までもが失われつつあった。 昨日といい今日といい、ポカポカ陽気で早朝深夜ですら寒さを感じさせなかったくらい暖かかった。 広島ではチラホラ雪が舞っていたらしいが、改めて関西と関東の距離を感じさせられる。 撮影を切り上げて駅へ向かった。 11時10分発の電車に乗らなければ東尾道駅まで戻れないので言わば最終便となるが、 それより1時間早く電車に乗った。 これから約10時間の長い帰路が待っている。 電車の中から白く化粧した富士山を見ると、どことなく見送ってくれているような気がした。 |